wah in 東北 9日間の活動レポート

wah in 東北 9日間の活動レポート

今回のwah in 東北の活動は、北本ビタミンスタッフから空閑あき・上田雄三、アーティストの荒神明香と、wahスタッフ増井宏文と南川憲二(僕)の計5名で向かうことにした。依頼をうけたわけでもない上、被災地で活動を仕掛ける上で、様々な困難や、もしかしたら活動ができなくなる場合も、前向きに捉えて行動できるチームとして、僕から是非、wahメンバーとして同行して欲しいと声をかけた5名である。

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6月8日、AM10時。食料、水と適当な工具などを軽トラックに積んで、埼玉北本から出発。
18時到着の見込みが、思いのほか移動に時間がかかり、宮城県に入ったのが20時を過ぎ、石巻市から牡鹿半島へ向かう山道を進んでいる時はもう辺りは真っ暗になっていた。地割れで路面がかなり危なっかしく、オロオロと進む。山道が開けると集落が見える。あらためて来る被災地。何度訪れてもやはり衝撃的な光景。電灯もなく真っ暗な中、無惨に崩れている町並みの驚異的な光景が、現地の過酷な状況を生々しくを伝える。

22時過ぎに石巻市牡鹿公民館に到着。周囲の建物はほとんど流されている。現状使われている建物の中でおそらく最も海に近い建物がこの公民館のようだ。到着が予定より遅れて深夜になっていたため、密やかに公民館の中へ向かう。2階建ての公民館は電気が通っておらず、ほんとに真っ暗である。すると中から懐中電灯の明かりがポツンと点いて、こちらへ近づいてきた。「わあ、びっくりした、、。こんばんは、、。」「夜分にすみません、今日からお世話になります、、。」夜中なので、自己紹介とはいかず「怪しいものではないですよ」というだけを伝える程度に挨拶し、荷降ろしも明日にすることにして、建物の中へ入った。この公民館の一階は津波によってガラスは全て割れていて、かわりにコンパネが設置されてある。またそこら中の壁がひび割れており、ほとんど廃墟というべき姿をしている。入り口を入ると、吹き抜けにスロープ状の階段があり、その2階から声がする。その声の主、この場所のボランティア活動のリーダー遠藤氏と、この施設で活動する3名のスタッフに挨拶をした。遠藤氏よIMG_2808り「wahさんの活動は拝見しています。期待していますよ。」という言葉と、また、水道(ポリタンクの水を使う)仮設トイレ、キッチン用スペースなどの簡単なルールを聞き、共同の寝室へ入った。ようやく、寝室で落ちついた時、メンバーから「みた?」という話がでた。なんでも公民館の外に出たところにある仮設トイレへ行く途中、建物の中に遺体安置場(仮)と書かれた看板があったそうだった。その後、建物の外のポリタンクの水で歯を磨いている時、公民館のスタッフがやってきたので、遺体安置場のことをきいた。
「昨日も入ってきたよ。」まだこの辺りは復興の速度が遅く、時々発見された遺体がこちらに届き、親類などに確認してもらうときに使われているそうである。同じ一階には自衛隊が捜索中にみつけた遺留品などを預かる部屋もある。スタッフの言い方から推測するに、こんなことは日常の一部なんだろうなと、思っていたより過酷そうな現場に覚悟をあらためた。しかし、「トイレに行く時は起こしていい?」と、みんなに確認してから寝床についた。
                                                                                                                                                                                                                                   
6月9日、活動初日。AM6時起床。朝食をとって軽トラックの食料などを公民館の中へ。
DSC_00118時から事務所で行われるここのボランティアスタッフの朝礼に出席。昨晩は別の寝室におられた他のスタッフとも顔をあわせる。常駐しているスタッフは6名程いた。僕らとあわせて11名がこの公民館でしばらく滞在するようだ。僕らのことは、遠藤氏と、僕らをここに紹介してくれた「め組ジャパン」というボランティア組織の「ケロさん」という方だけが知っているようで、他の方たちは、当然僕らがここへドロかきなどの作業をしにきていると思っているようだった。
IMG_2899ボランティアスタッフの方たちは長靴を履いて、各地から寄せられる要請書をみていた。遠藤さんが6名のスタッフに仕事を割り振る。各スタッフにはさらに石巻から来る大勢のボランティアスタッフがついて、リーダーとして各自の持ち場で作業をするようである。wahのメンバーから、とりあえず午前中はドロかきなどの作業を手伝うか?という提案もでた。しかし、それは事前に話し合っており、やらないと決めていた。増井曰く「中途半端にドロかきの体験だけして、これは大変だとか、わかったようなことを言いたくはない。今自分らができる目一杯の仕事と思うならそれをするのがいいが、僕らは違う事ができると思っている。自分たちの活動を通して、現地での考えや実感をもてばよい。」強い意見だった。人それぞれ考えは様々だろうが、僕たちの目的ははっきりしていた。

僕らが到着する数日前に、ケロさんが近隣の避難所や小学校などに呼びかけてくれていて、その際作ったチラシに『16時30分に公民館に集合』と書かれており、ひとまずそれに向けて準備を進めた。ただ、ケロさん曰く、小学生には交通手段もなく、学校へ交渉に行った際は「まだ子どもに刺激を与えたくない」と断られている。また、避難所で活動したいと申し出たときも同じく断られている経緯もあり、人が集まるとは限らないし、どう思われているかもわからなかった。期待はせず、とにかく準備だけをしようと思った。むしろ、いかに活動が可能か、もしくは不可能なのかを確かめたいという気持ちもあった。そのためにも、とにかく活動拠点が必要であった。
一方、60名程度のボランティアスタッフが石巻市からバスやってきて、公民館の周囲のドロかきを始めた。この地域のライフラインである側溝が先日の豪雨で瓦礫が詰まっている。側溝を再開させるべく、みな汗だくで作業をしていた。

DSC_0040IMG_2800そんな中、僕らはwahの活動拠点を作っていた。公民館の敷地の野外スペースに、ブルーシートの屋根や、机、掲示板を設けはじめた。撤去済みでゴミとなった瓦礫の山から木材を運び釘を抜いて雑巾でこすった。側溝のドロかきをするボランティアスタッフから、僕らが何をしているのか聞かれ応える場面が何度かあったが、あまり反応はなかった。地元の人も、同じ公民館に滞在しているスタッフも(遠藤さんとケロさん以外は)とおりすぎるだけだった。

DSC_0060しばらくして、公民館の中で作業をしていると、wahのメンバーと地元の年配の人が話している声がした。ケロさんが「地元の人に胸ぐら掴まれることもよくあるよ。」と言ってたのを思い出し、話している場に駆け寄った。しかしwahメンバー増井と荒神が、丁寧に活動の説明をしていて、僕が来たころには「氷川きよしのコンサートがあったらいい!」などのアイデアを出してくれていた。そして津波が来た時の話も話してくれた。初めて地元の方から聞く震災の話だった。「遠いところまできてくれてありがとう。」と、最後に涙を流して握手をしてくれた。そして「またおいしい食べ物つくってもってくるね」と言って帰られた。いろんな地元の人の考えがあるだろうが、こういう考えの方がいて、偶然にもその方に出会えたことで、少し緊張していた気持ちが楽になった。

DSC_0109-1DSC_0121そして16時頃、僕らの拠点に小学4年生くらいの男の子がやってきた。説明していると、いつの間にか小学生で机がいっぱいになった。12名くらいのこどもと、その母親が来ていた。初のアイデアミーティングはもっぱら盛り上がった。僕は「ぐしけん」という名誉ある、しょうもないあだ名をいただいた増井はジミというこれまた残念なあだ名をいただいた上、「ジミなマッス」という歌までつくってもらっていたが、全力で撤回しいておもしろかった。子どもらにひとりずつ自己紹介をしてもらDSC_0124DSC_0173ったとき、2年生の女の子「もえか」が急に涙をポロポロとこぼした。「笑い過ぎて泣いた。」と言っていた。また、アイデアを出したりふざけたりして盛り上がる中、なくなった方(の名をかいて)『生きかえってほしい』とか、『絶対に流されない家を建てる』というアイデアも出ていた。描いているところを見ていたスタッフによると、悲しいことを表に出したいというより、ただ何も思わずパッと描いた感じだったいう。17時30分、みんなで大縄飛びをして、18時頃解散した。思いもよらぬたくさDSC_0114んの参加者に驚いたまま夕食をとり、モヤモヤ考えたまま10時頃寝床についた。
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      
DSC_0014活動2日目。6時起床。午前中から、活動拠点の道具棚と、ブルーシートの屋の上には「アイデア実現所」という看板を作った。14時頃から近隣の小学校へ出張し、学校に許可をもらって放課後の運動場にいる児童にアイデアを描いてもらった。活動紹介のポートフォリオに体する反応がすごくよかった。ページをめくるたびに「おお!」と声を上げてくれた。                                                                                                                                                        
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DSC_0169夕方からは初日と同様、公民館の外に作った拠点(アイデア実現所)でミーティングを実施した。この企画が「願い事を書いたら叶えてくれる」と伝わっているような部分を訂正し、「みんなで何か作りたい」という気持ちを伝えた。この日のミーティングも活発だった。また17時30頃から大縄跳びをした。子どもや子どもを迎えにきた母親も楽しそうだった。ひとりの母親は、地震後子どもが集まる場所がなく、学校が終わったらみんな家に居た。子どもや親の集まり場としていつも使われていた近くの公園が流されてしまって困っていたと話してくれた。
地震の10日後頃から活動する「ケロさん」は、久しぶりに子どもの笑顔をみたと言った。また、同じ公民館に滞在するボランティアスタッフも「子どもが喜んでいるみて、何をやりたいのかがわかってきた。この人らは何なんだと思っていたんだ。。」などと、ようやく好意的に接してくれるようになった。しかし、それはそれでとてもよいことだが、僕たちが何か作りたいと思っていることがお母さん方にどこまで伝わっているのかもわからなかったし、近所にある避難所の方や地元の方ともまだ接しておらず、まだまだ慎重に考え、現場の感覚を養いたいと思っていた。
子どもたちが集まった理由に、はっきりとした整理がつかないまま、「アイデアがたくさん集まった!」という内容のツイートをした。その後、お風呂用の水が供給されていないと知り、片道1時間半かけて久しぶりのお風呂へ行った。しかし営業時間に間に合わず、みな疲れきった体で公民館へ戻り就寝した。
                                                                                                                                                                                                                                   
DSC_0048活動3日目。7時起床。活動の流れとしては、そろそろアイデア決定をしたかった。 これまでどおり『16時30分スタート』という看板をだして夕方を待った。しかし、夕方になっても子どもは来なかった。「また明日。」と昨日話したばかりの子どもたちが一人も来なかった。理由は全くわからなかった。昨日一昨日と、同じ時間に公民館では「炊き出し」があったので、たまたまそのついでに来てくれていただけなのか、「願い事を叶える活動じゃないなら、いいや。」ってことなのか、、、そもそも活動の流れが伝わっていたのか、たまたまうまくいったとしか言いようがないこの2日間だっただけに、不安がよぎった。

この日の朝、この公民館に滞在するボランティアスタッフの一人が自分の車(スポーツカー)のエンジンを吹かして音をたてていたところ、地元の男性(5~60歳くらい)から「お前は、何をしにきているんだ!」と大きな声で怒鳴られていたという。大勢の方が亡くなられたこの地で、よそ者がスポーツカーを吹かすことに嫌悪感をもつ人もいるだろう。このボランティアスタッフの男性は、数日だけボランティア活動をするつもりだったが、毎日の仕事量や寝る暇もない他のボランティアスタッフを見かねて休職してこの公民館に長期間滞在して働いていることを後に知った。
この日は、活動拠点付近に落ちているガラスくずなどを掃除して、活動を終えることにした。
                                                                                                                                                                                                                                   
4日目。7時起床。今日子どもが集まらなかったら、自分たちで初日・二日目のアイデアを元に何か行動しようと話していた。明日(5日目)は今回参加メンバーらそれぞれに別件で重要な仕事をかかえており、活動ができない日と最初から決めていた。明日を除くと今回滞在できる日程が、この日を含め4日間しかなかった。
僕は朝一番に、なんとなく昨日から気になっていた「アイデア実現所」という看板を取り外し、奥の壁へ付け替えた。

DSC_0159DSC_0139昼前からピザ宅配業者「ピザーラ」のトラックが公民館の駐車場に止まっていた。夕方から公民館で無料ピザを配布するそうである。僕らは、子どもがいつ来てもいいように、アイデア用紙を掲示板に貼り、気に入ったアイデアに投票できるように準備を進めていた。そこに、一人のチェーンソーを使ってパオーマティブな彫刻をやるという男性が来た。「め組ジャパン」のスタッフが石巻から連れて来たのだと言っていた。そして、辺りの瓦礫の中から大きめの梁を見つけてきて、DSC_0147この公民館の看板を彫刻すると言った。その時、調度近くの道路を掃除していたボランティアスタッフや地元の人たちへ「今からチェーンソーで木を彫るパフォーマンスがはじまります~!」と、声がけがはじまった。人が集まってきたところで、僕らも作業を止めて観に行った。チェーンソーのエンジンを吹かし、勢いよく梁を彫り始めた。が、数分すると人は去っていった。僕も少し気を使いながら、作業をしていた場所へと戻った。15分ぐらいして、作ったものを見せてくれた。「Welcome!牡鹿!」と描かれた看板は、思った以上に技術があって、一文字ずつ立体的に彫られていた。
その後すぐ、ピザを片手に、初日2日目に会った子どもらが集まってきた。更にたくさんのアイデアが出された。後からスタッフに聞いたところ『おかしの家』DSC_0033をまるで茶色いタイル(公民館の入り口が茶色いタイルになっている)に見えるように作りたいと、自分の持っている御菓子の個数などを計算している子もいた。

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そして、『子ども映画館をつくる』というアイデアがでた。僕もwahメンバーも、子どもも、お母さん方も盛り上がり、もうやってしまおう!というノリになった。早速、作業分担をしようと、やりたいメンバーを募ると、そこにいた子どもはほとんど「やる!」と言って集まってきた。上映作品や、映画館内でコーラを0円で売る、ポップコーンも食べられる、定員さんをしたい、などなどのアイデアが出た。
                                                                                                                   
DSC_0188img007一方、投票されたアイデアは、『ジェットコースターで学校へ行く』というのと『花火(打ち上げ)がしたい!』というアイデアが最も人気が高かった。ジェットコースターは、家の窓と教室の窓がジェットコースターのレールでつながっているもので、個人的にもめちゃ魅力を感じるが、どう考えても今回は難しかった。『これはいつか、やれるようにします!』と、理解を求めた(けど、こういうアイデアどんどん実現できる活動でありたいと本当に思う、、。)。打ち上げ花火については、img009花火大会がなくなってしまって残念だと話してくれたお母さん方とも「難しいけどなんとかやりたいですね!」と話し、「子ども映画館」と「花火」は何とか実現に持っていきたいと思った。
                                                                                                                                                                            
                                                           
この夜、公民館のボランティア活動のボスである遠藤さんと話した。
「今回実行したいアイデアについて」また、ずっと聞きたかった「そもそも、なぜwahの活動をこの地で実施したいと思われたのか」を遠藤さんに訊きたかった。
子ども映画館は大賛成だった。材料にしようと考えていた段ボールも物資などが入っていたものをあるだけ協力してくれて、映画館を建てる場所についても、邪魔にならない駐車場の端の方などを考えていたが、「真ん中の方がおもしろい。」の一言だった。
「僕は会社を経営していたが、こっちが忙しく、かかりっきりになっているが、いつかwahと仕事をしてみたい。」とも言ってくれた。遠藤さんがここに滞在しているのは震災の直後に家を出て東北へ来て以来、ずっとだという。たまたまこの牡鹿半島の鮎川が大変だと案内され、まだボランティア活動などがはじまっていない震災直後、この公民館に入った。そして地元の方から大事な倉庫(食料や物資を保管する)のカギを預かった。それ以後、長期で滞在するボランティアスタッフに出会っていない為、そのカギの管理や地元の方の信頼が必要な仕事が数えられない程あって、少しずつしか他のスタッフに任せられず、そのままここに居るのだという。今後はどうされるのか、と訊くと「まあ、ず~っといるんだろうね。」と。それから、ここに居て良いこと悪いことは、言い出せばキリがないとおっしゃったが、一番嬉しかったのは、街中にずっと電気がなくて(今は避難所と一部の家に通っている)にローソクが必要という要望を受け、東京の知り合いなどに連絡をしまくって2800個かき集めた。その後、家の修理などでこの地域の住居を回る度に、どのお宅でもそのローソクが灯っていた。それを観て、「ああ、よかった。」と思う、と。逆に大変なのは、「家の周りの瓦礫を掃除して下さい。」との依頼があって、その家族が旅行などから帰ってくる間に瓦礫をボランティアスタッフと掃除することや、炊き出しをもらえなかったという人のクレームを聞くことなども頻繁にあるという。
そんな中、wahがここに来るといいと思った理由は、ズバリ何も無いようだった。というか、来たい者が来て自己責任で活動するのが当たり前であった。今回wahの活動を観た後で、遠藤さんがいいと思ったことを教えてくれた。それは「子どもをきっかけに大人が喜んでいること。」だった。子どもが集まったのも地震後はじめてだったが、子どもは適応能力があって楽しんだり悲しんだりしている。遠藤さん曰く「地元の親や主婦同士が会って状況を話し合う機会」や、「子どもが楽しんでいる様子を観ている間、親も思いっきりわらったり怒ったりしていいと思える機会」が大事だと。地元の大人は気持ちを切り替えられないでいる。また、被害の大きさなどによって地元にも「しがらみ」がある。まずお母さん方が顔を会わすことが大事。と。
それから、「花火」のアイデアに関しては、地元の人へのアンケートから入って実行へ持ってゆけるように考えていたが、実は水面下で動いている人がいるということも聞いた。どうやら花火について僕たちより専門の人らしく、ひとまずその方たちの動きを待とうと思った。

遠藤さんの思いを聞いて、スッキリした。僕らが何故ここにいていいか、そんなことは誰もわからない。僕らはそのことにモヤモヤしていたが、それが被災地において通常の状態である。僕が話したアートは無力だとか有力だとか、何とも無駄な議論であった。現場に有力なものとそうでないものがあるだけであった。今朝、スポーツカーの音に怒鳴った地元の人も、怒鳴られたボランティアスタッフもモヤモヤしただろう。被災者が不謹慎な場合もあるし、その逆もあるだろう。被災者、アーティスト、ボランティアスタッフ、というより一人の人間の中で、不謹慎なことやそうでないことが同居しているのがこの現場であった。そう思ったと同時に「今日のピザーラはちょっとサービスしすぎだな。」と思った。ピザはちょっと時間かけたら買いにいけるし、そこまで被災地が空腹ではないように見えた。チェーンソーの彫刻はちょっと誇示してる部分が目についたんだろうな。小学校にアイデア募集に行った時、スプレーで短時間で絵を描くアーティストが来ていたのを思い出した。子どもたちは5分程でみるみるA3サイズぐらいの絵を仕上げるイリュージョンを観て純粋に驚いており、またアーティストもそうなることを知っているようだった。その作品は僕の趣味ではなかったけど「絵」が機能している現場だと思った。地元の人が避難所の中でひらいている無料散髪屋さんの看板には、『4649(ヨロシク)!!』という文字が描かれていたのを思い出した。要は行動する人が、何がよくてダメなのか、その瞬間瞬間に判断して行動してゆけばいいのだ。決してピザーラがダメとか彫刻家がダメだとか言いたいわけではない。その場その場で僕自身が何かを判断することこそが必要だったのである。「アイデア実現所」の看板は、今度また掲げたくなった時につけ直そうと思った。

その後、wahメンバー5人と、明日から映画館を思いっきり作ろうと話しあった。僕と増井は明日スカイプでの授業の時間がどうしてもはずせなかったが、他のメンバーは、明日はもう、子ども映画館の為に動きたいと言ってくれた。「みんな、スマン!」と思いつつ、力が沸き上がってきた。
                                                                                                                                                                                                                                                                                        

IMG_2098IMG_20745日目。5時起床。増井と僕は授業のためマクドナルドへ。他のメンバーは子どもが描いた映画館のチラシを印刷したり、材料の調達に出た。軽トラの荷台にコンパネをたてて、段ボールを限界まで詰め込んで公民館へ運んだ。夕方、増井と僕の授業が終わり、公民館へ遅れてきたら、子どもらが上映したい映画を話し合っていた。老若男女楽しめそうなロボットのアニメ映画に決まった。
その後、映画館のチラシを配り、子ども映画館の看板DSC_0140DSC_0213やチケットの制作、ポップコーンの容器の装飾などをした。もう大人も子どもも名前を呼び合って親しくなっていて、作業が楽しかった。                                                                                      
                                                        
                                                                                                                                                                       
DSC_0222IMG_28696日目。7時起床。7時過ぎ頃、共同の寝室のドアを「コンコン」とノックする音がした。活動に参加している「もえか」とその兄「れん」が入ってきた。手には大きな銀鮭。後ろからお父さんが、「子どもらがいつも楽しみにしています。」と言って、さらにカレイが3匹入った袋を渡してくれた。今朝海で釣ったものだそうで、ボランティアのボスである「遠藤さん」が銀鮭を、そしてここに滞在するボランティアスタッフでこの近所の被災者でもある「たっちゃん」がカレイを捌いて刺身にしてくれた。公民館に常駐するスタッフ皆でいただき、めちゃくちゃ上手くて好評だった。

DSC_0161DSC_0242そして、作業開始。映画館の骨組みとなる段ボールを組み合わせる。子ども映画館の看板が完成。当日集まるこどもらが30人くらいと見込んで、タテ10m×ヨコ4m高さ2mくらいの映画館を作ることにしたが、段ボールの数が全く足りず、また一日かけて軽トラックで運んだ。
夕方、子どもらが来ると段ボールの柱や、ポップコーンショップ、上映作品の看板などを制作した。

                                                                                                                                                                                                                       
DSC_0285DSC_02117日目。6時起床。映画館の前日。昨日カレイを捌いてくれた「たっちゃん」が、車が運転できなくなる程の量の段ボールを自分の車に詰め込んで「どうぞ。」とやってきた。その後たっちゃんは、瓦礫の撤去作業中に腕を怪我して病院に運ばれた。大事にはいたらなかったが、8針縫ったと言っていた。映画館作りは前日とあって、急ピッチで段ボール柱を制作、柱が建ったあとに貼付ける壁用段ボール、床用段ボールなどを制作した。夕方は子どもも親も僕らも必死で作業を進めた。DSC_0291DSC_0303子どもよく動いた。僕らは深夜12時30分頃、一度作業を中断した。その後、またも「たっちゃん」が戻ってきて車で段ボールを運び入れてくれた。
                                                                                                                                                                                                                               

DSC_0024DSC_00818日目。本番の日。4時半起床。朝食をとって、ポップコーンショップ、チケット売り場を完成させた。映画館の床の段ボールを赤く塗装。また、柱を全て建てて繋げ合わせた。公民館の中で軽く昼食をとりながら「午後から壁を貼って17時の上映にギリギリ間に合うかどうかの瀬戸際だ。」と増井が話した。それと、もう一つ重要なミッション、プロジェクターとスピーカーは用意できたもののスクリーンが無い。段ボールを白く塗装するにもペンキが無いという問題を解決しなければいけDSC_0073DSC_0087なかった。いつもスライディングセーフの僕も、さすがにブルっていた。そんな飯が喉を通りづら~い昼食中、「トイレ。」と出て行ったwahのスタッフ上田から急に増井に電話があった。「緊急事態です。」みんな慌てて窓から外を観ると、映画館の柱が全て倒れていた。浜風が強くなっていたのだ。現場に駆けよった時には、僕は公民館内での上映などを考え始めた。すると、公民館のボランティアに来ていた「ヒロさん」という設計の仕事をしている方がやって来て、段ボールのDSC_0105 1DSC_0131柱に補強を入れ始めた。近くの避難所を運営する役員の方も柱を支えていた。僕らもその指示に従って補強すると、あっという間に映画館の柱が復活した。時間は16時。なんとか意地でも間に合わせるぞと、壁を貼り出したら、そこに市役所の職員の方が15人くらい来て「これは何とかしないと!」と言って、壁作りを助けてくれた。また、その時「たっちゃん」が、「瓦礫の中からスクリーンを発見した。」と持って来て映画館の中に設置してくれた。みんな必死だった。みるみるうちに映画館が完成した。会場には子どもや親が大勢集まっていた。子どもだけで50人以上いて、入り口から行列をなしていた。

DSC_0127DSC_018117時15分、予定より15分遅れで子どもたちが映画館に入場。定員となった子どもらがチケットを受け取り、ジュースや御菓子のサービスをして案内する。子ども映画館のアイデアを考えた3年生の「支配人」が自前のネクタイ姿で登場。「みんなで作った映画館、最後まで楽しんで下さい。」の挨拶で始った。19時10分までの上映時間、飽きて外に出てはしゃぎだす子どもや、じっくり映画を見る子、それを観ながらテーブルを出してお酒を楽しむ地元の大人たちもいた。一日だけP1010654DSC_0134の子ども映画館は大盛況だった。遠藤さんが「子ども映画館を公民館で続けたい。」と言った。具体的にこの看板やポップコーン屋さんなどを残して‥と、いきなり打ち合わせになり、公民館の中に子ども映画館を一部移設して残すことになった。子どものお父さんお母さんは「子どもらは家で、いつもこの映画館の話をしていました。やれば何でもできると思った。」「うちの子もこんな活動をする芸術家にしたい。」などと話してくれた。

この日は、「ケロさん」たちと公民館の中で乾杯をして、お酒を飲んで話している最中、みんなバタバタと眠った。

                                                                                                                                                                                                                                  
9日目。搬出日。7時半起床。地元の方や、公民館のボランティアスタッフから「勿体ないから、もう何日か置きたい。」とか「今度は大人も楽しめる映画館にしたい」という声もいただいたが、自分たちの中では今回の活動はもう充分だった。現場で余韻をいつまでも楽しむのは好きではない。あくまでこの、1日だけの「子ども映画館」を実現し、その可能性を体験したかった。子どもらが学校から帰ってくるまでに映画館が無くなって僕らも去るくらいがいいと思っていた。しかし、搬出には思ったより時間がかかった。段ボールを撤去するには、片道1時間半のところへ軽トラックに限界まで詰めた段ボールを4~5台分くらい運ばなければいけなかった。軽トラックは乗ってきた1台だけだった。朝からみんなよく動いたが今日中搬出が厳しいと思っていた。しかし、ほぼ毎日朝から来てくれていた「エリさん(参加している子どもの母)」が、「収集所で引き取ってくれるかも。」と言って、電話で確認してくれた。収集所は何とここから車で5分のところにあるという。「15時30分までなら大丈夫だって。」とエリさん。時計をみたら14時45分だった。「よし超本気で片付けよう!」wahメンバーとエリさんで死にものぐるいで軽トラに段ボールを詰め込んだ。すると、辺りを掃除していた地元の方たちが手伝いにきてくれた。10人以上来てくれて、軽トラックも出してくれた。学校から帰った子どもらも加勢して、15時30分、子ども映画館が全て撤去された。奇跡の45分間、終わった直後、おもわず地面にしりもちをついた。その後、子どもと暗くなるまで遊んで、別れを言った。一人の子ども(もえか)は僕の背後からベルトに手をまわしたまま離れなかった。しばらくして手を外すとおもいっきり涙をこぼしていた。その後、家まで見送ったが、懸命に涙をこらえた顔で、さっさ歩いていって、家の中へ入っていった。しばらくしたら、家の外まで大きな泣き声が聞こえた。

22時過ぎ、荷物をまとめて牡鹿公民館を出た。ボランティアスタッフの方たちみんなで見送ってくれた。
                                                                                                                                                                        
帰りの車の中。今回の活動、公民館のボランティアさんや地元の人が力をかしてくれていなかったら、絶対に実現できなかった、という話になった。許可をしてくれたとかのレベルではなく、恥ずかしい話ではあるが、物理的にも100%無理だった。スクリーンも「たっちゃん」が持ってきてくれてなかったら、どうしていたのかわからない。それから、最も大変な局面でたまたまその場に人がいて手をかしてくれたことがあらためて不思議だった。今までの活動の感覚からも、ラッキーがいくら続いたとしてもこれは少し行き過ぎていて不思議だった。また梅雨の時期であり海のすぐ側であったため初日から雨がよく降ったが、最後の3日間だけ日中夜おもいっきり晴れた。今となっては1日だけ子どもが一人もこなかった日も何か変だなと思う。何か不思議な力が働いたのだろうか、ちょうど明日は、地震の「百か日」だった。

しばらくして、子ども映画館、第二弾:上映会実施のメールがきた。6月24日19時から。こんどは大人向けの映画と2本だてだそうだ。

子どもからもたくさん手紙をもらった。今からその手紙を返そうとおもう。

そして最後になりましたが、この活動を支援して下さった皆様に心より厚く御礼申し上げます。
この度は本当にありがとうございました。

wahスタッフ一同


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wah archive展:成安造形大学

成安造形大学(滋賀県)にて、これまでの活動のarchive展を開催しています。6月19日までです。

主に、在学生や新入生向けですが、これまでのおそらく3000枚以上あるアイデア用紙や、各プロジェクトの企画書なども閲覧しております。

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http://www.seian.ac.jp/topics/1105261638.html

また、6月19日には、ワークショップも開催予定です。

街中に日付と時刻を印字した風船を配って、その時刻に丘の上(大学内)にソファーなどを並べて、ポップコーンを食いながら街から風船が上がってくるのを観ようというものです。参加(15名)見学自由です。

ではでは、明日からまた東北へ、行ってきます。今回は一週間程、め組ジャパンさんというボランティア組織にお世話になっていて(予定していた小学校での活動は見送りになりましたが)石巻の公民館で活動をさせてもらえそうです。とにかくまずは、行ってみようと思います。

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wah in 東北 レポート

18日 <北本 → 福島>

DSC_00108:30出発 何か北本のお土産をと、和菓子屋(岡乃屋)さんへ。すると「トマトどらやき」を箱に詰めて「持っていってください。」と。ありがたくいただき、現地へ持っていかせてもらう。

常磐道を日立南太田で降りて、茨城県北部の海岸沿いを福島方面へ北上。

相馬市。

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見渡す限り全ての田んぼにが干上がったドロでひび割れている。
相馬から福島原発付近へ

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迂回路や徒歩で原発がみえる個所を探すが見当たらず。このすぐ近くのサッカー場に大くの作業員が駐留し働いていた。

19日 <福島 → 気仙沼>

6:00 気仙沼へ向かう

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DSC_0421Exif_JPEG_PICTUREDSC_0469強烈な異臭。マスクを2重にしても強烈に鼻に入ってきた。多くの建物跡から僕が住んでいる埼玉県の北本より栄えていたことがわかる。半崩壊している建物も多く、被害の壮絶さや津波の威力が視覚的に伝わる。

20日 <気仙沼 → 陸前高田>

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陸前高田市。最も被害が大きく言葉を失う。おそらく波が高かったのか、他の町ではあそこに逃げれば助かったかもしれないと思うような場所もあったのだが、ここには見当たらない。高いビルの上も崩れていて、全く町に何もなく遠くの山の裾がみえている。撤去されずにそのまま残っている瓦礫の量から大きな町だったことがわかる。また、その瓦礫の中を警察官が長い棒を持って捜査しているのをあっちこっちでみた。行方不明者の確認ができない場所は重機を入れて瓦礫の撤去作業ができないそうである。

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そんな陸前高田のまさに被害が最も大きい場所を移動中、道端にコンパネや古材を使って建てられている建物を発見した。

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車を止めて、話を聞く事にした。快く取材させてくれたのは、コンノ建設社長:金野さん。もともとここに木材の加工場がありそれを建てなおしているそうだ。といっても、ここはまだ瓦礫の撤去どころか警察の捜査をしている状況の町中。今後このエリアに建物を建てることが決まっているわけでもないという。「家も会社も流されたが、悲観してもいられない。とにかく何かやっていかないと。」と社長。材木庫から流された木をかき集めて、まずは材料となる木を加工しているそうだ。「屋根はまだ無いが来週くらいには設置できるはずだ。」握手してもらった社長の手の内側に何か強い力のようなものを感じた。今でも手に少し感触が残っている。

陸前高田から石巻へ

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山積みにされた瓦礫。独特の量感。大きさや臭いも強烈であったが、何百件もの建物をブルドーザーで寄せた物体の感覚が異様な空気を放っていた。

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DSC_0391陸前高田の山

石巻へ。

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石巻の専修大学。全国各地から集まるボランティアスタッフを管理するセンターがあり、多くのボランティアスタッフが生活している。大きなボランティアセンターに各ボランティアコミュニティーがある。一般のボランティアスタッフは、大元のボランティアセンターに書類を持って登録するか、各ボランティアコミュニティーから登録してボランティアスタッフになる。だいたい毎朝、各ボランティアコミュニティーに仕事(ドロかきが基本だそうだ)を言い渡され、車に乗れる5人1組などのグループに分かれて行動する。

僕らは、とても気のいい知り合いに紹介してもらった「め組」というボランティア組織を尋ねた。専修大学に着いた途端、芝生のだだっ広い広場にテントが数百とある光景が美しく思ってウロウロと写真を撮っていたら、即刻注意を受けた。けっこう強面の土方風の格好をした人が「なにやってんだ?」と。話を聞いていると、その方が「め組」に所属していることがわかり、今にも追い出されそうな気まずい空気がながれた。一生懸命取り組んでいるボランティア活動の場所にヅカヅカと礼儀無くはいってしまい、僕の「め組」スタッフへの謝罪があいさつとなってしまった。そして、事情を話しポートフォリオでwahのプレゼンをさせてもらった。すると、思いのほか急にうちとけて仲良くなることができた。「是非、今避難所でやって欲しい活動だ。」と。すごく嬉しかった。しかし何故そう思われたのかは、そこまで掴みきれたわけではなかった。地震直後から活動しているという彼らの中に僕らの活動を必要だと思ってくれる理由を是非現地で身を持って知りたいと思う。

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話をしているうちに6月上旬から石巻の小学校で活動できるように話を繋げてもらえることに。ウソみたいに話が進んだ。6月の活動に向けて準備を急ごうと思う。

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一食100円の晩ご飯。麦飯・唐揚げ・焼うどんが盛られる。うまかった。また北本の岡乃屋さんにいただいた「トマトどらやき」をここで活動する人たちに食べてもらった。

「め組ジャパンHP」http://maketheheaven.com/megumijapan/

21日 <石巻 → 北本 >

帰りの車内で、この4日間を振り返った。

最も影響を受けたのは陸前高田でみた金野社長の姿だった。未だ瓦礫がそのまま残っている現場に参加できるのは瓦礫の中を捜査する警察と、捜査済みの瓦礫(「OK」とスプレーで印される)を撤去する自衛隊、各地から来たいろんな会社の重機だけである。各会社がどういう経緯でここに入ったかはわからないが、いずれも当然ながらこの現場で活動する確信がある。同じくその中にコンノ建設も参加している。世間ではいろんな会社がそれぞれに理念をたてて営まれているだろうが、それを超えた確信とか必然がなければここには立てないように思えた。アーティストも例外ではない。僕は地震があった直後「活動の可否を問う」ということが自分のひとつの使命だと思っていた。恥ずかしながらこの場では全く不要であった。しかし、自分はここに立ちたいと思った。アーティストに何ができるかとか、、うまく仕掛けて少しでも役にたてたら、、そんな消極的な気持ちはない。「可」に決まっている。何かできる気がしてしかたがないし、また、そうありたい。それには、かなり慎重に進めていかなくてはいけない事がたくさんある。けどまずは、自分はこの地で活躍する重機のように、とても何かできると思ってしまう。「思い込み」かもしれないが、そんなものが無ければまず現地に行けないだろう。コンノ建設の社長は極めて私的に活動していたが、不思議とある公共性をもっているようにも思えた。ここから何か生まれるような、いつか伝わる必然のようなもの、それを作り出しそうであった。

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建物だけが何とか残っている地域でも、過酷な状況の中、散髪屋、ガソリンスタンド、たいやき屋、八百屋が店を開けているのもみた。仮設のdocomoの電波車もあった。それぞれに強い思いを持って活動しているのだろう。

とにかく、準備を慎重に考えて、被災地で活動したいと思う。

2011年5月25日

wah document 南川

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wah in 東北 出発直前

東北へ行ってきます。

ご協力下さったみなさま、本当にありがとうございます。

まずは、21日まで現地を見学してきます。

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車に積むもの。

ガソリンタンクより、食べるものの方が多いです。

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はみ出し丸:制作中。

はみ出し探検隊の活動、2月中は活動が少し空いていたので、ここのところ集まりが少なかったが、いよいよいつもの雰囲気が帰ってきた。子どもの声を聞いていると地震の影響があり、無人島へ行きたいがなかなか家の人の賛同は得れないようだ。そりゃそうだ、この時期に子どもと船で冒険なんてバッチリ危険と心配の象徴だ。(もちろんmどんな場合でも慎重に進めなくてはいけないが)僕らが出航までの許可をとるのと同時に、子どもたちは親の許可をとるのがこのプロジェクトのヤマ場になるだろう。とにかく行きたいという「気持ち」を持続させたい。

僕はただ食べ物があって寝る場所があっても生きた実感が湧かない。無人島へはまだまだ遠い。とりあえず目の前に無人島へ行く為の船があるというちょっと変な団地の日常を楽しみながら進めてゆく。

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京都芸術センターから北本へ

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京都芸術センター、校舎間の綱渡り無事、実行することができました。

お集まり下さったみなさま、活動を支えて下さったみなさまに、心より感謝します。

※校舎間の綱渡りの動画、近々アップできるよう準備しております。

wahスタッフは京都芸術センターの展示は搬出も無事に終え、次の埼玉県北本市の「はみ出し探検隊」の活動へとシフトしております。

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はみ出し丸制作は、ゴールデンウィークに大詰めを向かえようとしています。

今回、芸術センターの活動を通じて強く感じたことは今後の活動の中でかたちにしてゆきたいと思います。

今後ともどうぞよろしくお願い致します。

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3月23日つなわたり:ステートメント

てんとうむしのつなわたり:3月23日  ステートメント

「落ちるかもしれない。いや、踏ん張ってもう少し進もう。今度は本当に落ちる。いや何とか持ちこたえた。ひたすらこれの繰り返し。やがて綱の端が現れる。。。こんな感じです。」

綱渡り師:岡本勉(トムらっはい)氏への綱渡り中の心境 インタビューより

展覧会場にきてみれば、会場のあちこちに綱が張りめぐらされ、常時、綱渡り師数名がその上を歩いている。そんな「非日常のあたりまえ」の光景を作り出したい、この企画の当初は胸を躍らせていた。その時点からすれば不本意ながら、現段階ではこれに時間設定をしてパフォーマンスとして、限られた場所のみを観ていただく運びとなり、それを実施する上でのステートメントを用意させていただくこととなった。

ただ当初の目標とは全く別物の経緯と結果をたどっていようとも我々は、その現状について落胆はなく、むしろ希望に溢れている。もう長くは説明しないが、ここまでたどり着くまで本当に紆余曲折あった。wah documentの活動としてもこれほどの思いは経験がない。また当センターにとっても始って以来、これほどの例はないと、いろんな人に伺った。様々な面で「作品だから」「おもしろいから」といってもクリアできない問題と対面し限界を渡ってきた。そして、、、東北地方太平洋沖地震が起きた。想像を超えるほど悲惨な事態であった。プロジェクトは自粛を考えた。しかし「やめなくてよい。」これが担当者の判断、そして「こんなときこそやってほしい」これがてんとうむしプロジェクトのボランティアスタッフの声だった。この状況ですごい判断だと思う。wah documentは連日のワイヤー設置の準備に追われ、肝心な場面であってもなかなかそれが即答できる程、頭が回っていなかった。いや、恥ずかしいことだが、そこまでの考えがなかったのかもしれない。

しかしその判断は、展覧会の開催についてにとどまった。今日渡ろうとしている2Fの綱渡りに関しては、センターから中止を含めた修正を求められた。2Fの綱渡りはてんとうむしプロジェクトにとっては生命線だった。我々自身の心の底から「やる」という理由が、今、出なければ、前述の「やめない」という理由では足りなかった。

2Fの綱渡りの予定日は目前である。担当者を中心に進めたセンターとの会議は、この時点から昨夜まで含め12時間以上に及ぶ。中止は決定されていた。我々はあきらめなかった。しかし、「勝った」のではない。センターが許可したのである。昨日の21時まではもう「できない」と判断されていた。充分に話も伝えた上で、芸術をいかにとらえるかという議論ではなく、公的にこれを適当とすることがこの時点で誰にもできなかったのである。

その後、会議は一変し21時30分頃、話が決着した。ここで話された内容は是非それぞれにお考えいただきたい。

1995年に発生した阪神淡路大震災。当時の芸術関係者は、芸術の無力を痛感したという。それから日本各地にアートプロジェクトや芸術施設が起ち上がる。無力からそれを有力に変ようとする可能性、日本の芸術の土壌が作られたのである。ここ京都芸術センターも例外ではない。当時の過酷な状況の中、このアートセンター設立の計画が進められ、震災から僅か5年後の2000年にオープンした。

そして前の震災から16年。我々が、今、この状況の中で渡ろうとしているものは何なのだろうか。

てんとうむしプロジェクトという小さな活動体が、今、何か大切なものを渡ろうとしている気がしてならない。

wah document÷てんとうむしプロジェクト

南川憲二

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wahの現状2:京都

明日23日の綱渡りが、先ほど許可された。奇跡である。

会議は4時間半に及んだ。相等シビアなものだった。もう絶対に何を言っても考えを共有できないと思った。そういう人なのだと思い始めた。何度話してもこたえはNOだった。帰着点はなかった。取りやめた場合、契約上どういう問題が起こるかという具体的な話も始まってきた。

「キレたらおわりやで。」これがスタッフからもらったお守りだった。

僕も増井もキレはしなかった。(ちょっとだけしか。)

昨日ブログ上げた思いの丈は、丁寧に全て説明した。芸術の捉え方が違った。

ゲリラでやるか?それは絶対にしたくなかった。特に担当者がそこに熱かった。

昨日書いたとおり僕らは「許可」が欲しかった。

来年に延期?それもあり得ない。どんな条件をもらっても、もうこのプロジェクト絶対に起ち上げられない。それはコアメンバーが実感としてよくわかっていた。

公的な場所で、今これは許可できない。この一点だった。それを変えるのは、不可能だと思った。

あたりまえのことだが、相手は個人であってそうではない。僕らがどんな鋭利な考えをぶつけてもそれが適当とされることはない。まして主に話しているの相手は我々よりも遥かに知識を持ち合わせている人物だった。せっくこのプロジェクトで培った実感を言葉にして提示しても、内容をより上位の概念の解釈によって返そうとすることを繰り返すゲームに化してきた。

「取りやめ」、あるいは譲歩して「延期」、それがだめなら「中止」せざるを得ない。どうするか?

最もな意見に聞こえる。しかし矛盾点もある。根本的な考えの相違は議論にならない。

話がおさまらない。感情は役にたたない。

最後に言おうとしたのは「思い」だけだった、会議が始まって4時間が経過。何度も話してわかっていることだろうと思ったが、もう一度これまでのプロジェクトの経緯を説明した。

思いが通じた。ウソみたいだった。これだけ距離があって対立していても「伝わる」ことがあるんやと思った。言葉に魂が宿ったようだった。するっと相手の口の中へと入っていった。

我々が、この会議で「これは難しい」と思ったのは、考えがどうではなくて管理上の立場を(ある程度)理解しているという点にあったと思う。しかし、それを許可してくれたということは、すごいことかもしれない。

それから、言い渡された懸念点(安全確保の制度をあげることなど)とも紳士に向き合おうと思う。

今回の綱渡り師「トムらっはい」さんに、綱を渡っている最中の心境を尋ねたことがある。

「落ちそうだ。でも踏ん張って進もう。また落ちそうだ、でも耐えよう。今度は本当におちそうだ。でもなんとか持ちこたえた。これをひたすら綱の上で繰り返している。すると綱の端が見えてくる。。。こんな感じ。」と。

思えば、ここに書いたのはあくまでセンターへの実現交渉の局面のみであり、他に役所的に、物理的に、コンセプト的に、予算的に、などいろんな問題があり何度も落ちそうになりながら進んできた。今度ばかりは本当におちそうになったが、また耐えて進んだ。

そして、このてんとうむしプロジェクトは何を渡っているのだろうか。

また、阪神大震災後の過酷な状況の中、計画され2000年に誕生したという京都芸術センターは、この新たな大震災の状況の中、何を渡そうとしているのか。

京都の小さなアートプロジェクトが渡ったこの綱を是非みにきて欲しい。

何もなければ(絶対にないようにするが)展覧会は27日(日)まで開催されている。

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wahの現状:京都

京都芸術センター「つなわたり」は、今大きなヤマ場を迎えている。といっても、3tもの加重がかかる綱渡りの技術的、安全的、物理的、一切傷をつけてはいけない登録文化財の保護への対応、などなど「つなわたり」の実現性に伴ったヤマ場は、我々wahスタッフ、芸術センターボランティアスタッフ、芸術センターの事務局スタッフ、いろんな協力者の方々と共に多くの問題を乗り越えてきた(もちろん最後に成功するまでは「完全に」とは言えないが)。

僕のこれまでの経験の中でと言えば、たかが知れているかもしれないが、それでも、過去の経験の中でこれだけ難しかった例はなく、特に京都の行政が関わる登録文化財であるこの場所の性質に加え、持ち時間や予算の少さもあり、ここまで持って来れたのは奇跡に近い事が何度か起こったことにある。そして今乗り越えようとしている問題は、それとは性質の違う、芸術センターそのもの、またwahの活動の根源、もっと大きく言うと芸術の可否に関わる問題である。

事の発端は今、日本中が直面している東北地方太平洋沖地震である。これを受け、本展覧会、京都芸術センター:wahdocument÷てんとうむしプロジェクト「tightrope walking てんとうむしのつなわたり」展は、センター側内部から「取りやめ」の意向をうけた。展覧会の自粛ではない。そうであれば、我々もこの状況であることを承知でやっているので、延期や中止等の処置の相談にこたえたいと思っている。そうではない。厳密に言うと、「綱渡りを見た人が、地震を想起させて不安を増大させる可能性があるから取りやめて欲しい。」と言われている。10歩譲って、それが実際にありうるとして、会場に本展についての説明をするブースを設ける。また、会場に入る際、綱渡りが校舎の高いところで行われること(場所と時間)を伝え、観客が見ないという選択肢を設ける。などの対応を考えられる。しかし、それでもどうしても「取りやめ」を行って欲しいという意向は変わらないと。どれだけ聞いても、理由がそれ以上明かされなかったという。自粛ではなく僕たちプロジェクトを行っている側から鑑賞者の不安を配慮してとりやめて欲しいと。それも昨日、伝えられた。もう展覧会は3月8日から始まっている。そして問題の校舎間の綱渡りは明後日、23日行われる段取りで進んでいる。この展覧会がプロジェクトベースであり、僕が責任あるコアメンバーの一員である限り、自分のできる範囲、公開したいと思っている。

この展覧会は、「芸術センターのボランティアさんたちと展覧会を作って欲しい」とのオーダーを芸術センターからwah documentが受け、昨年の12月から始まった。

期間の事や予算のこともあって、始めは展覧会の外枠を僕らで決め、その中でボランティアさんに表現してもらおうと思っていた。その企画は自分でいうのも何だが、なかなかハイセンスな枠の中での企画になっていた(いつかまた見せたいと思っている)。ただ、初めてのプレゼンやミーティングの中で高校生から90歳くらいまでのボランティアさんに、wahの活動が、これ以上ない程ボロッカス(それなりに批判の場にもさらされて来たと思っていたが、かなりのものだった)に言われたり、また、ボランティアさんが(長い人で10年以上)芸術センターに関わってる理由を聞く場面があった。(詳細はいつか映像で是非伝えたい)それぞれのボランティアさんがこのセンターで培った「実感」が伴った、僕らの胸に突き刺さる鋭い意見であった。それを受け、企画の路線を一挙に変更し、このボランティアスタッフの方達と話し合い、京都芸術センターで実現したいアイデアを出して実現するという最もシンプルな企画としてスタートさせた。そして、アイデアミーティングを重ね、アイデアを決定する会議のまさに終盤、危険性が懸念されそれほど人気がなかったアイデア「つなわたり」が、ボランティアさんの一人の主婦の熱弁(机をたたきながら「これをしないで、何がアートだ!」)により一気に拍手が上がり、他に年配方や若者に人気のあったと同等の価値が見いだされた。僕はその瞬間、まだwahが続けられると悟って涙が流れた。※正直、50回以上活動を続けていると、アイデアの先がみえてしまうことにとらわれだす=参加者の感覚をマジで信じられなくなる。と、wahを続けるのには無理があると考え始めていた。それがこの瞬間「まだまだやれる」と思ったのだ。

そして、センターのスタッフと話し合い、選ばれた3つのアイデアの中で最もリスクの高い「つなわたり」を是非やろうと、「てんとうむしのつなわたり」をスタートする。それから紆余曲折、膝から崩れそうな実現への困難さを、wahスタッフとセンター事務局のスタッフたちと乗り越え、会期目前をむかえた。会場のあちこちを「常に綱渡り師が(数人)歩いている」という非日常的な光景が、あたりまえに常時なされている状況を展示できると胸を躍らせた。しかし展覧会開始の3日前、「安全確保が確実にできるとは言えない」という理由により、「常時、綱渡りをすることはできない」との意向を受けた、確かにもうギリギリのところで進めており100%の準備ができていなかった落ち度もあり、取りやめざるを得なくなった。また会期中の2日間だけであれば十分な安全確保の対策ができると、2日間のみ綱渡りが許可された。「なぜ?」ここでも言えばキリがない程、不毛な思いをした(このあたりの映像は部分的に芸術センターに展示している。)ここでくじけては元も子もないと、その2日で見せきってやるしかないと誓い、また、ボランティアさんの「それでも綱渡りを見てみたい」という意見もあって(自分たちもみたかったし)、ほとんどの来館者が「なんや、つなわたりしてないやんけ。」と思うだろうという、開催する上で最も大きなリスクを背負っての、我慢の展覧会をオープンさせた。そして、、、地震が起きた。数日後展覧会はどうするか、との話が上がった、「やめなくてよい。」これが担当者の判断。会場を常に看守してくれているボランティアスタッフは「来た人は喜んでいる」「むしろ、こんな時こそやってほしい。」と。担当者もボランティアも、すごい判断だったと思う。僕らはワイヤー設置の準備に追われ、肝心な場面であっても、なかなかそれが即答できる程、頭が回っていなかった。いや、恥ずかしいことだが、そこまでの考えがなかったのかもしれない。しかし客足は少し遠のいた。なかなかこのタイミングで作品を見る気にはならないのか。

そして地震から10日が経過した昨日、センターから許可された綱渡りの実施日(3月23日)の3日前に再度「取りやめ」の意向を伝えられた。もう、綱渡り師の方は東京から家族を和歌山に疎開させて一人でこの状況のなか、たくさんの道具を運んで京都芸術センターに来ている。

僕らは、そもそもこの芸術センターに関わったこと自体もを疑った。

その夜、憤りをおさえながら、僕は相方の増井に質問を突きつけた。「お前は何でこんなに大変な時に、税金を使って表現したいと思っているのか。」「これをやめて、今もなお人の命が亡くなっている被災地にお金を送った方が世の為ではないか」 増井は「そう言われるとわからない。けど俺はこんな時に無料で美術館が解放されていたらいいと思う。」そのこたえにしばらく戸惑ったが、その応えを元にを話を極論づけてゆくことができた。「ここが仮に被災地だったとしたら俺たちは何をやるべきか?」と考えた。二人とも結論は「つなわたり」だった。僕らにできることはまさにこれであり、そして、今この可否を世に問うことだと悟った。それは人々を希望に包み込むかもしれないし、もしくは確かに恐怖を抱かせるかもしれないことである。しかし、それを表に出し世に問うことは、我々が存在する根拠であると悟った。

先日、私のある恩師からこんなメールが届いていた(記憶の限り一部を抜粋)

日本の今日のアートプロジェクトの発端は、阪神大震災である。当時のアート関係者が無力さを痛感し、その後アートに「何ができのるか」と考え続けたことにある。それから16年の年月が経ち、更なる大規模な地震が起こってしまった今、我々は何を思うのか。と。

僕らは、阪神大震災以後「何ができるのか」という思いを込めてひたすらつくられてきた「何かができる土壌」に立たせてもらっている。2000年にオープンした京都芸術センターはまぎれもなくその一つの例である。私はこの土壌が培ってきた「実感」と共に、今度はこの日本にアートの可否を問いたい。我々のこたえはもう整っている。そして行動している。しかしそれを世に問いたい。アートはこの場所(あるいは国)で今、起こるのか否か。今日、芸術センターのボランティアスタッフが15名程集まる機会がありそこでも尋ねた。彼らは即答で可。「アートは地震の時こそ必要だ」と。また「アーティストとセンターは今、それを発信すべきだ」と。10年、この土壌が培った「実感」が肥やしとなった。あとは種がここで発芽するか否か。センターにもう一度、明日問う。明日22日センターの幹部と話し合う。結論を求める。

それが僕らのこの場での使命であり、てんとうむしプロジェクトのミッションである。

結果は、23日当日できれば会場でご覧いただきたい。それまでプロジェクトとしてはこのように公開はしているものの、慎重に行動したい。どうかあたたかく見守ってて欲しい。もし意見があれば僕たちに直接いただきたい。

info@wah-document.com

そしてこれをきっかけに、wahの活動の意義として、もう一つ世に問いたい。

世界中で多くの国際展に参加しているある日本人アーティストと話す機会があった。その方いわく「日本は世界で一番、(街中などでの)作品設置の許可が下りない国だ」と。なにはともあれ、芸術表現が大事だとか、必要だとされていない国の一つの証である。西欧から持って来たのアートと、そのルールに乗った作品をその箱の中でやってゆけばいいと。我々の生活には関係するなと。

しかし、それが悪いことではない。悪いも良いも、根源的に僕たちは、この日本の日常の中に暮らしていて、芸術なるものを起こし、そしてそれが重要ではないかと考える経緯や実感が単になっかたのだ思う。

僕は小学生の頃から若干wahのような活動をしていたがそこにはアートもアーティストもいなかった。こんなこと「やっていい」という土壌=芸術大学に感動したのがこの進路を選んだ一番大きな理由だった。やってもいい土壌があること。それが実感だった。

そこから、今度は僕らがやっていることの可否を世に問いたい。それがアートがまさに起こりうる国で活動する根源である。

僕らはこの思いを胸に次のプロジェクトを展開したいと思っている。

P1120230

今、センターとの会議を目前に、一本のワイヤーが張られた.

3月22日午後4時追記。

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京都芸術センター:TIGHT ROPE WALKING はじまりました。

P1120161TIGHT ROPE WALKING ーてんとうむしのつなわたりー

3月8日(火)〜27日(日)まで

京都芸術センター:ギャラリー北、南、グラウンド

会期中あと2回は綱渡りします。23日に2階の校舎の間を渡ろうと準備中!

詳細決まり次第報告します!

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