wah in 東北 レポート

18日 <北本 → 福島>

DSC_00108:30出発 何か北本のお土産をと、和菓子屋(岡乃屋)さんへ。すると「トマトどらやき」を箱に詰めて「持っていってください。」と。ありがたくいただき、現地へ持っていかせてもらう。

常磐道を日立南太田で降りて、茨城県北部の海岸沿いを福島方面へ北上。

相馬市。

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見渡す限り全ての田んぼにが干上がったドロでひび割れている。
相馬から福島原発付近へ

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迂回路や徒歩で原発がみえる個所を探すが見当たらず。このすぐ近くのサッカー場に大くの作業員が駐留し働いていた。

19日 <福島 → 気仙沼>

6:00 気仙沼へ向かう

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DSC_0421Exif_JPEG_PICTUREDSC_0469強烈な異臭。マスクを2重にしても強烈に鼻に入ってきた。多くの建物跡から僕が住んでいる埼玉県の北本より栄えていたことがわかる。半崩壊している建物も多く、被害の壮絶さや津波の威力が視覚的に伝わる。

20日 <気仙沼 → 陸前高田>

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陸前高田市。最も被害が大きく言葉を失う。おそらく波が高かったのか、他の町ではあそこに逃げれば助かったかもしれないと思うような場所もあったのだが、ここには見当たらない。高いビルの上も崩れていて、全く町に何もなく遠くの山の裾がみえている。撤去されずにそのまま残っている瓦礫の量から大きな町だったことがわかる。また、その瓦礫の中を警察官が長い棒を持って捜査しているのをあっちこっちでみた。行方不明者の確認ができない場所は重機を入れて瓦礫の撤去作業ができないそうである。

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そんな陸前高田のまさに被害が最も大きい場所を移動中、道端にコンパネや古材を使って建てられている建物を発見した。

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車を止めて、話を聞く事にした。快く取材させてくれたのは、コンノ建設社長:金野さん。もともとここに木材の加工場がありそれを建てなおしているそうだ。といっても、ここはまだ瓦礫の撤去どころか警察の捜査をしている状況の町中。今後このエリアに建物を建てることが決まっているわけでもないという。「家も会社も流されたが、悲観してもいられない。とにかく何かやっていかないと。」と社長。材木庫から流された木をかき集めて、まずは材料となる木を加工しているそうだ。「屋根はまだ無いが来週くらいには設置できるはずだ。」握手してもらった社長の手の内側に何か強い力のようなものを感じた。今でも手に少し感触が残っている。

陸前高田から石巻へ

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山積みにされた瓦礫。独特の量感。大きさや臭いも強烈であったが、何百件もの建物をブルドーザーで寄せた物体の感覚が異様な空気を放っていた。

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DSC_0391陸前高田の山

石巻へ。

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石巻の専修大学。全国各地から集まるボランティアスタッフを管理するセンターがあり、多くのボランティアスタッフが生活している。大きなボランティアセンターに各ボランティアコミュニティーがある。一般のボランティアスタッフは、大元のボランティアセンターに書類を持って登録するか、各ボランティアコミュニティーから登録してボランティアスタッフになる。だいたい毎朝、各ボランティアコミュニティーに仕事(ドロかきが基本だそうだ)を言い渡され、車に乗れる5人1組などのグループに分かれて行動する。

僕らは、とても気のいい知り合いに紹介してもらった「め組」というボランティア組織を尋ねた。専修大学に着いた途端、芝生のだだっ広い広場にテントが数百とある光景が美しく思ってウロウロと写真を撮っていたら、即刻注意を受けた。けっこう強面の土方風の格好をした人が「なにやってんだ?」と。話を聞いていると、その方が「め組」に所属していることがわかり、今にも追い出されそうな気まずい空気がながれた。一生懸命取り組んでいるボランティア活動の場所にヅカヅカと礼儀無くはいってしまい、僕の「め組」スタッフへの謝罪があいさつとなってしまった。そして、事情を話しポートフォリオでwahのプレゼンをさせてもらった。すると、思いのほか急にうちとけて仲良くなることができた。「是非、今避難所でやって欲しい活動だ。」と。すごく嬉しかった。しかし何故そう思われたのかは、そこまで掴みきれたわけではなかった。地震直後から活動しているという彼らの中に僕らの活動を必要だと思ってくれる理由を是非現地で身を持って知りたいと思う。

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話をしているうちに6月上旬から石巻の小学校で活動できるように話を繋げてもらえることに。ウソみたいに話が進んだ。6月の活動に向けて準備を急ごうと思う。

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一食100円の晩ご飯。麦飯・唐揚げ・焼うどんが盛られる。うまかった。また北本の岡乃屋さんにいただいた「トマトどらやき」をここで活動する人たちに食べてもらった。

「め組ジャパンHP」http://maketheheaven.com/megumijapan/

21日 <石巻 → 北本 >

帰りの車内で、この4日間を振り返った。

最も影響を受けたのは陸前高田でみた金野社長の姿だった。未だ瓦礫がそのまま残っている現場に参加できるのは瓦礫の中を捜査する警察と、捜査済みの瓦礫(「OK」とスプレーで印される)を撤去する自衛隊、各地から来たいろんな会社の重機だけである。各会社がどういう経緯でここに入ったかはわからないが、いずれも当然ながらこの現場で活動する確信がある。同じくその中にコンノ建設も参加している。世間ではいろんな会社がそれぞれに理念をたてて営まれているだろうが、それを超えた確信とか必然がなければここには立てないように思えた。アーティストも例外ではない。僕は地震があった直後「活動の可否を問う」ということが自分のひとつの使命だと思っていた。恥ずかしながらこの場では全く不要であった。しかし、自分はここに立ちたいと思った。アーティストに何ができるかとか、、うまく仕掛けて少しでも役にたてたら、、そんな消極的な気持ちはない。「可」に決まっている。何かできる気がしてしかたがないし、また、そうありたい。それには、かなり慎重に進めていかなくてはいけない事がたくさんある。けどまずは、自分はこの地で活躍する重機のように、とても何かできると思ってしまう。「思い込み」かもしれないが、そんなものが無ければまず現地に行けないだろう。コンノ建設の社長は極めて私的に活動していたが、不思議とある公共性をもっているようにも思えた。ここから何か生まれるような、いつか伝わる必然のようなもの、それを作り出しそうであった。

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建物だけが何とか残っている地域でも、過酷な状況の中、散髪屋、ガソリンスタンド、たいやき屋、八百屋が店を開けているのもみた。仮設のdocomoの電波車もあった。それぞれに強い思いを持って活動しているのだろう。

とにかく、準備を慎重に考えて、被災地で活動したいと思う。

2011年5月25日

wah document 南川

カテゴリー: wahin東北 |

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