はみ出し探検隊:活動終了

今日は、はみ出し探検隊の活動最終日だった。最後の一日は活動の場を振り返るよい機会となった。

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シャッターの前に、『3月18日最後のパーティーやります』と貼っていたら、これまで「はみ出し」に参加した子どもらの半数近く、25名程集まってくれていた。とはいえ、もう最後だから寂しい〜、とかそんなムードは全くない。あまりこれまで紹介したことはなかったが、はみ出し探検隊はガチャガチャの集団である。これまでwahの活動では子どもと接する機会が多かったがここまでは稀だ。たまに他の地域で小学生に愛想良く「こんにちは〜。」なんて話しかけられると最近は涙がでそうなくらい嬉しくなってしまう。はみ出しのメンバーたちには残念ながらそんな機能はない。内情としては主要メンバーのクラスは学級崩壊しているし、家に両親がいる家庭はまずない。小学生でも夜は8時頃まで家に帰らずにそこら辺で遊んでいる子もよくみかける。まあとにかくこの1年半、日数では100日以上を共にに過ごしたのだが『道端であって挨拶ができる』『ゴミをポイ捨てしない』ということがやっと最近できるようになったというような現状である。そんなアヤツらだが、いつも「はみ出し」の活動には参加してくれている。たまたま「はみ出しのアトリエ」の前にいたから活動に参加するのではなく、わざわざ自分で指定時間に集まってくる。親や自治会、学校に呼び掛けを協力してもらってるわけでもない。そして今日も「はみ出し」の活動がはじまった。今日は、中の物を一切撤去して空になった団地商店街の空き店舗「はみ出しアトリエ」の中で、これまでの活動のスライドを投影してみんなで見る予定だった。「そろそろ始めようか〜」と僕が言い出すと、辺りで散らばっていた子どもらがバラバラと、一応集まってくる。そして「今日がほんまに最後やぞ!」とか「こんなこと(船を造って無人島に行く)したんは全国の小学生の中でもでお前らだけちゃうか」的なことを僕が熱弁するが言葉がどっか隣のお店の方へと抜けていく。スライドを流しても、大半の子どもはガサガサしたりプロジェクターで影絵をやりだしたり、飽きて外で遊びだす。一生懸命僕と増井氏がスライドの写真に対するおもしろコメントを考えて気をひこうとするが、まあちゃんと聞いてるのは5人ぐらいがいいところだ。これまでは、おもっきり怒鳴ったり、集中力のない子どもにはスタッフが寄り添ってサポートするなどなど、考えつく限りの方法で現場の態勢をつくってきた。大人の見学者もよく見に来ていたからスムーズな現場をみせたいというのもあってスタッフの役割や態度のあり方などは一通り試行錯誤してきた。今日の「はみ出しスタッフ」は僕らwah document以外にキタミン•ラボ舎から上田氏と吉田氏がいた。彼らは「はみ出し」の常連スタッフで子どももみんな知ってるベテランである。ただし、話を聞かない子どもに注意するわけでも、寄り添って話を聞かせるように仕向けるわけでもない。ただ、騒いでる子どもの近くにスッと身を近づけるぐらいの動きをするだけである。そして今日の現場もまるで収集がついていない。そのままの状態で上田氏と吉田氏が子どもらに対する最後の一言を伝えるタイミングがやってきた。上田氏は「僕はこの団地の近くの出身で、僕が小学生の時に同じような体験ができていたら、今自分に大きな影響があるかもしれないと思う。みんなにはこの活動のことを大人になるまでどうか覚えてて欲しい。」吉田氏は「僕はこういう活動が本当におもしろいと気づいたのは大学に行ってからだった。もし今それに気づいてる子がいたら是非それを続けて欲しい。」多少割愛させてもらうが概ね二人の話はこのような内容だった。子どもの反応は、どちらの話においても、途中ピクッと何人かの子どもの顔つきが聞くモードに変わったのがわかった。僕の話でも増井の話でも上田氏や吉田氏の話でもいい、あるいはどの話も聞いていなくてもいい。僕らスタッフが絶えず言いたい事は同じで、その信念をそれぞれこの場に投げ続けた。それは、一見収集がついていないような状況でも、その「場」というものに意識があってそこに影響を与え続けたと思う。これからそれが個々人にどうかえっていくのかは、わからない。たまにこいつらはどんな大人になるのかな、と参加者への影響を垣間みたい気はするが、僕らはそれが目的ではない。集団によってできる「場」がつくる「活動(作品)」に興味があって、またその力を信じている。今日はそんな「場」を僕らは相手にしているのだということをあらためて気づかせてもらう機会となった。上田氏と吉田氏2人の話が一段落したら、はみ出しのメンバーのひとりがつくってきたという「宝探し」がいきなり始った。事前にお宝が団地のあちこちにかくしてあるらしく、その地図やヒントが掲載されたプリントを配布しだした。なんでも自分で団地の自治会に地図の提供や書類のコピーをお願いしていて用意してきたらしい。

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また、しらけて流行のカードゲームを始める男子たちに「はい。」と四角い色紙をわたされた。なんだ?と表をみると、仲間から集めた「はみ出し大人たち」へ向けた寄せ書きがあった。しらけムードの子どもらからの、このギャップテクニックにやられて一瞬泣きそうになったが、シャクなので普通に、お!ありがとうっ、とかえしといた。

そして、最も僕の記憶に残ったのは、毎回船作りに参加していて船の中に滑り台をつくったメンバー(5年生)の最後の一言だった。彼は以前から「はみ出し」の活動には力を入れて参加していた。キツい作業でもあきらめずよくやっていて周りの信頼も高かった。しかし冒険直前の時期に様子が変わった。「原発の影響があるから、千葉の無人島には行けない。」と言い出したのである。最初は家の人がそう言ったと聞いたもんだから「ここまでやってきたんだろ?」と僕らは何度もくい下がった。しかし次第に原発から流れた放射性物質の海への影響などを自分で調べるようになっていて、逆にはみ出しの仲間にも危ないからやめたほうがいいよと注意するようになっていた。はみ出しメンバーの子どもらはそれでも行くことを決意して親や役所とも話し合いプロジェクトは続行した。僕は彼とは何度も話したが、自分の意志として行かないことがはっきりしていたので無人島に行く船に乗るメンバーにはならなかった。しかし、夏休み明けの無人島へ行った直後の登校日、無人島行ったメンバーたちは「どうだった?」と根掘り葉掘り彼からの質問攻めだったそうだ。登校日の後、僕が彼と話した時には、冒険当日は何時に出発してどういう場所で休んだだの、当日は何を食べただの、細かい情報まで調べ上げて「こうだったんでしょ?」と説明をしてきた。彼は3人兄弟の長男で3人とも「はみ出し」に参加していたので、おそらく兄弟が無人島に行きたいと言っても「行けない」ということを伝えなきゃいけない責任があったのかもしれない。「はみ出し」メンバーらが無人島へ行ってきた後に、真っ先に団地でメンバーを募っておこなった秘密基地づくりの発起人は彼だった。そして彼に今日最後に「はみ出しの活動、正直これまでどうだった?」と聞くと、「おれ、行きたかった、無人島。」とぼそっともらした。

僕は、はみ出し丸に乗って無人島へ行った。しかし正直にいうと、無人島といっても人工の船着き場があってコンクリートでできていたり、、、何というか現実は儚いものなんだなと思っていた。ただ、そんなことより「同じクラスのやつらが船をつくってで無人島にいったんだ」なんてことを知って、自分も何かやってやるぞと妄想を続けることは無敵だなと思う。僕らもまた儚い現実をめっちゃおもろいものに変えていく妄想を続けてゆきたいと思う。(南川)

カテゴリー: はみ出し探検隊, 記事 |

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